« 枕崎・平和祈念展望台より、戦艦大和を想う (01) 枕崎到着 | 摩文仁の丘より | 枕崎・平和祈念展望台より、戦艦大和を想う (03) エピローグ 指宿枕崎線から開聞岳を見る »

2010年5月13日

枕崎・平和祈念展望台より、戦艦大和を想う (02) 殉難鎮魂之碑から東シナ海を望む

 朝七時半頃に目が覚めた。窓から外を見ると、朝日が眩しい。快晴で穏やかな一日になりそうだ。
 私は八時過ぎにホテルを出た。ホテルのすぐ裏手の海岸沿いが、火之神公園という東シナ海を一望できる公園になっており、岩場が海に鋭く切れ込んでいる。
 岩場に出てみると、岬の先に「立神岩」と呼ばれるロウソクのような形状が印象的な巨岩が、海からひょっこりと立っている。この立神岩は、高さが四十二メートルあり、枕崎のシンボル的存在だという。

IMG_0304.JPG

 少し歩くと、このあたりは映画「男たちの大和」のロケ地として使われたという説明が書かれた看板が立っていた。仲代達也さんと鈴木京香さんが初めて出会うシーンが、東シナ海と立神岩をバックに撮影された云々と書かれてあるが、映画を見ていない私には、それがどういうシーンなのかよく分からない。

IMG_0303.JPG IMG_0305.JPG

ここがそのロケ地らしい。

 その看板には平和祈念展望台の説明も書かれていた。それによると、「第二艦隊戦艦大和、巡洋艦矢矧などの沈没地点から北側約二百キロに位置する小高い丘に、殉難鎮魂の碑と平和を願うシンボルの女神像が安置されている。眼下には、壮大な東シナ海が広がり、沈没地点が水平線上に望める」とある。

 まだ誰もいない公園内のプールや駐車場を通り過ぎると、「平和祈念展望台入口」と彫られた石柱があった。

IMG_0310.JPG

そこから小高い丘を登る道を進んでいった。道の両側には、灯籠が整然と並んでいる。灯籠に彫られた文字を読むと、

 「巡洋艦 矢矧 戦死者 山口安治 洋上遙か青海に眠る兄に捧ぐ」
 「戦艦大和 乗組員 山口一光(十七歳)の英霊に捧ぐ」

といったことが書かれていた。

IMG_0314.JPG

 丘の上に辿り着くと、見晴らしの良い展望台になっていた。海側は断崖になっており、その先は東シナ海が広がる絶景である。
 展望台の中央に殉難鎮魂之碑があった。碑の両脇には真新しい花が飾られ、神秘的な雰囲気が感じられた。私の他には誰もいない。私は一人でしばし黙祷した。

IMG_0318.JPG

 展望台の由来と大和および運命をともにした第二艦隊の沈没地点について書かれたパネルがあり、こう記されていた。

 この展望台は、太平洋戦争の末期、戦艦大和を旗艦とする第二艦隊が、沖縄決戦へ向かう途中、米軍機と死闘の末撃沈した海域を眺望できる場所に造られました。
 第二艦隊の旗艦である戦艦大和は、ここから西南西約二〇〇キロの水深約三四〇メートルの海底に沈んでおり、その右方に巡洋艦矢矧、駆逐艦磯風、濱風、霞、朝霜の順に沈んでおります。
 このことは、戦艦大和会を中心に結成された「探索会」が、昭和五十五年七月の第一次海底探査、昭和五十六年四月の第二次探索、昭和五十七年五月の第三次探索により同水域を沈没地点と断定。昭和六十年八月には、海の墓標委員会がイギリスの潜水艇パイセスニ号の協力を得て行った潜行調査で確認。また、平成十一年八月テレビ朝日がタイタニック号の水中撮影や船体の一部引き揚げを手掛けたフランスのサルベージチームの協力を得て行った二隻の潜航艇による潜水調査で確認されております。

 パネルの説明図によると、戦艦大和は昭和二十年四月七日六時に、佐多岬および枕崎沖を西に向けて通過。
 十二時三十二分、米軍機一五〇機の集中攻撃を受け、戦闘状態に入る。
 その後大和は攻撃を受けつつも応戦するが、十四時二十三分、北緯三十度二十二分、東経百二十八度〇四分の地点でついに力尽き沈没。

 碑の裏側に回ると碑文が彫られていた。以下、長くなるが内容を記す。

 碑文
 戦艦大和は広島県の呉海軍工廠造艦ドックで昭和十二年起工、昭和十六年完成建造された世界最大の戦艦である。
 第二次世界大戦中は、連合艦隊の旗艦となり、数次の海戦に参加して活躍していたが、戦況急を告げ沖縄海上特別攻撃隊旗艦として巡洋艦矢矧、駆逐艦八隻とともに山口県徳山沖から沖縄決戦へと出撃したその途中、枕崎市の西南西約二百キロの東シナ海上において数百機と言われる相手国艦載機の猛襲にあい、約二時間の死闘ののちついに戦艦大和ほか巡洋艦矢矧、駆逐艦磯風、浜風、朝霜、霞ともども撃沈された。
 時に昭和二十年四月七日のことである。この戦闘で運命を共にした方々は三千七百二十一名を数え、その出身地は実に四十五都道府県に及んでいる。
 私達は、戦争による数多くの犠牲の上に今日の我が国の繁栄と平和な暮らしがあることをよく認識し、今なお水深三百四十メートルの海底に眠る戦艦大和等の貴重な歴史的事実を遺産として後世に語り継ぎ、戦争の悲惨さと平和の有難さを再確認したい。
 ここに戦艦大和ほか五十周年記念碑を安置して、幾多の殉国の御霊に心から感謝しつつ、永久に御供養し、あわせて世界の繁栄と平和を祈念するものである。
 平成七年四月七日
 平和祈念展望台事業奉賛会

 第二艦隊は昭和二十年四月七日、特攻として沖縄へ向けて出撃した。それは航空部隊の掩護はなく、もし沖縄に辿り着いたときは、残波岬に突入、自力座礁し、砲台になるという特攻作戦であった。

 私は以前、戦艦大和とはいったい何だったのかが知りたくて、大和の乗組員で生還した吉田満氏の著書「戦艦大和の最後」を読んだ。この本は、もし読んだことがなければ、ぜひお薦めしたい一冊である。東京帝国大学法学部から学徒動員により出陣し、大和の乗組員となった著者の目から見た大和と、出撃前夜の乗組員たちの葛藤が、ありありと表現されている。この文章が書かれた戦後まもない頃、GHQは占領下の日本人の愛国心に火が付くことを恐れ、これを発禁処分とし、昭和二十七年の講和条約成立後にようやく世に出すことができたという。
 戦艦大和はその名にふさわしく、当時の日本人の心に激しいナショナリズムに結びつく何かを呼び覚ます存在だったのかもしれない。

 しかし戦力としてみた戦艦大和は、大艦巨砲主義が生み出した燃料を食い尽くす長物でしかなかったという意見もある。阿川弘之氏の著書「山本五十六」によると、時代は戦艦から戦闘機に移りつつあることを確信していた山本五十六は、莫大な国家予算を費やす大和のような巨大戦艦の建造には反対だったという。

 山本の論旨は、
「そんな巨艦を造ったって、不沈という事はあり得ない。将来の飛行機の攻撃力は非常に増大し、砲戦が行われるより前に、空からの攻撃で撃破されるから、今後の戦闘には大戦艦は無用の長物になる」
 というのであったが、証拠を出してみろと言われれば、世界の海戦史で飛行機に沈められた戦艦は、未だ一隻も無い。
 阿川弘之著「山本五十六」第四章 七 より引用

 いずれにせよ戦艦大和が沈没し、アメリカ・イギリスに次いで世界第三位の規模を誇った日本帝国海軍連合艦隊は事実上消滅した。

 丘の上には殉難鎮魂之碑の他にも、遺族が捧げたのか大小さまざまな石碑が建っていた。それらに混じって、第二艦隊沈没地点の方角が分かるように地図を彫った石板が目を引いた。私はその前に立ち、大和をはじめ、運命をともにした巡洋艦が沈んでいる方角を見つめた。

IMG_0327.JPG

 茫洋とした水平線の下、大和が眠るのはあのあたりだろうか。いや、もっと向こうかもしれない。海底深く、私の手の届かないところで大和は永遠の眠りについている。
 昭和二十年四月七日早朝に、この枕崎の沖を進んでいった第二艦隊の艦影を想像しながら、私はほとんど波のない穏やかな海を眺めていた。

IMG_0328.JPG

「枕崎・平和祈念展望台より、戦艦大和を想う (03) エピローグ 指宿枕崎線から開聞岳を見る」に続く

2010年5月13日 14:03