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2010年4月27日

知覧特攻平和会館 (05) 特攻隊員たちの遺書

特攻隊員が出陣の直前に愛する人や家族に書き残した数々の遺書。それを読むことは、なんと辛く、悲しいものだろうか。職員のおじいさんは、しみじみと語った。

大きな遺品室に入りまして右側の方から、出撃順・戦死順に時計と反対回りにその遺影と関連の遺書・手紙が展示してございます。その中から特色のあるものを二、三紹介させていただきます。

(遺影を見せながら)この方はアイハナ少尉、宮城県出身で18歳。さきほど紹介してまいりました少年飛行兵として5月4日、特攻戦死です。この方二人兄弟でした。上に8歳ほど離れたお兄さんがいたんですけれど、この方が6歳の時にお母さんが病気で亡くなるんですね。それでお父さんは一人で子育てが大変だと言うこともありまして、再婚をいたします。上のお兄さんは新しいお母さんにすぐになじんだんですけれども、この人はなかなかなじめなかった。おそらく前のお母さんへの想いも強くて、かなり反発していたんじゃないかと思うんですね。しかしながら新しいお母さんのことも考えていたと見えて、特攻で亡くなる前の日に、新しいお母さんに手紙・遺書を書くんです。それをご紹介いたします。

このような原稿用紙に書いたお母さん宛の手紙です。内容を読んでみます。

母上、お元気ですか。長い間ほんとうにありがとうございました。我六歳のときより育ててくださりし母、慈しみ育ててくださりし母、ありがたい母、尊い母。
オレは幸せだった、ついに最後までお母さーんと呼ばざりしオレ、幾度か思い切って呼ばんとしたが、なんと意志薄弱なオレだったろう。
母上、お許し下さい。さぞ寂しかったでしょう。今こそ大声で呼ばせていただきます。お母さん、お母さん、お母さん、と。

遺書をたくさん展示してありますけど、お父さんはあんまり出てきません。お母さんは強くて、偉大なんですね。たくさんの子供を産んで、上手に育ててくれました。男の子は腕白で、兄弟ゲンカもしょっちゅうするし、お父さんには言えない不平不満も、お母さんにはぶっつける。それに対し、お母さんはときに厳しく多くの場合は優しく、包むように諭してくれました。そういう中で育ちました。そのお母さんの本当の偉大さが分かったのは、おそらく若干14歳にして軍律の厳しい少年飛行兵に、軍隊の世界に入ってからではないでしょうか。それから3年、4年、もう明日自分は特攻隊に出なければならないとなったとき、短い自分の一生を振り返ってみて、ああ、お母さんにはいろいろ世話になったけれども、何一つ親孝行してない。何一つお母さん孝行できていないということが一番心残りではなかったでしょうか。

このようにお母さんに対する思いを書き残した遺書が、大変多いというのが大きな特色のひとつです。中には「天皇陛下、万歳」と書いてある方もいらっしゃいますが、それ以上に17歳から20歳前後の若い青年にとって、最後は本音でお母さんに対する感謝の気持ちを述べたかったに違いありません。

それでは次に行きます。この方はアベ大尉。福岡県古賀市出身で21歳。この方も5月4日、特攻隊に出撃いたしました。この方は東京にあります明治大学出身の方です。大学生も学徒動員で動員されまして、全部で269名の方が亡くなっておられます。そのうちの一人です。で、このアベ大尉は、5月4日に特攻隊で亡くなっているんですが、実は5日前の4月29日、この知覧の基地から特攻隊として沖縄に出撃しております。ところが途中で戦闘機のエンジントラブル、故障が起きてしまいまして、鹿児島のすぐ南にある黒島に不時着するんですね。滑走路がないもんだから、海岸沿いに降りていったんでございます。そして飛行機から降りて、やれやれと思って村の方に行ってみると、なんと彼の同期生のシバタ少尉がいたのです。

シバタ少尉は4月8日、知覧基地から特攻隊で出撃したんですが、やっぱりエンジントラブルでこの黒島に不時着を試みます。ところがそのとき戦闘機がバランスを崩して岩にあたり、大火災を起こして、大やけどを負ってしまう。村人たちは一生懸命看病するのですが、薬もないのでなかなかよくならない。その様子を見たアベ大尉、もともと少尉だったんですが、特攻で亡くなって2階級あがって大尉になるんですけれども、当時アベ少尉が、「よし、オレは何とかして知覧に帰る。そしてもう一回戦闘機をもらって、沖縄に特攻出撃をする。そのときこの黒島によって、火傷の薬を落としていくから、お前、それまで待っててくれ」とこう言うわけです。

ところがこの黒島は、鹿児島から60km離れているものですから、泳いで渡るわけにはいかない。そのときその様子を見ていた牧場の息子さんで、ヤスナガさん、当時21歳だったんですが、「それじゃ私はここから伝馬船を漕いで行きましょう」と言って、村に一隻しかない小さな伝馬船を漕いで、黒島から鹿児島までやってきます。そしてアベ少尉は5月4日、念願がかなったというんでしょうか、新しい戦闘機で沖縄に特攻出撃して、亡くなるんです。その途中、この黒島にちょっと寄り道して、火傷の薬を落としていくんですね。その火傷の薬をもらってシバタ少尉、手当をしている間に戦争が終わり、助かります。昭和63年まで埼玉県で生活されておりましたが、もうご他界なりました。命をかけた友情というか、同期の絆の強さをうかがうことができる特攻隊員として紹介しました。

それでは最後になりますが、この方はクノ中佐、愛知県出身で29歳。5月24日、特攻隊員として亡くなられました。この方29歳ということで、お父さんでした。4歳の男の子と2歳の女の子がいました。お父さんは特攻隊員として亡くなるにあたって、子供たちに何かメッセージを伝えたかったのですが、4歳と2歳ではまだ文字が読めません。今ではビデオとか携帯とか便利な道具がたくさんあるんですけれども、当時は手紙ぐらいしかなかったんですね。それでお父さん、困ってしまうんですが、このようにカタカナだけの手紙を残しました。当時国民学校に入りますと、最初にカタカナから習いますから、学校直前になるとお母さんが子供たちに文字を教えます。こうして文字をなぞっていくと、お父さんはどういうことを自分たちに言いたかったのかなということを、少しでも早く分かることを期待して、このカタカナの手紙を渡したのではないでしょうか。男の子の名前がマサノリくん、女の子がキヨコさん、まだお元気です。内容を読んでみます。

マサノリ、キヨコへ
チチハ、スガタコソミエズトモ、イツデモ、オマエタチヲミテイル。
ヨク、オカアサンノイイツケヲマモッテ、オカアサンニシンパイヲカケナイヨウニシナサイ。
ソシテ、オオキクナッタナラ、ジブンノスキナミチヲススミ、リッパナニッポンジンニナルコトデス。
ヒトノオトウサンヲウラヤンデハ、イケマセンヨ。マサノリ、キヨコノオトウサンハ、カミサマニナッテ、フタリヲズットミテイマス。フタリナカヨクベンキョウシテ、オカアサンノシゴトヲテツダイナサイ。
オトウサンハ、マサノリ、キヨコノオウマニナレマセンケレドモ、フタリナカヨクシナサイヨ。
オトウサンハ、オオキナジュウバク(重爆撃機のことです)ニノッテ、テキヲゼンブヤッツケタゲンキナヒトデス。
オトウサンニマケナイヒトニナッテ、オトウサンノカタキヲウッテクダサイ。
マサノリ、キヨコ、フタリヘ。チチヨリ。

お父さんの優しい心が、ひとりひとりに伝わるような気がします。以上3つの例を紹介しましたけれども、その底辺にありますのは、親子のきめ細やかな情愛、これが特色と言えるんじゃないかと思います。

「知覧特攻平和会館 (06) 戦後の復興」に続く

2010年4月27日 21:52