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2010年4月27日

知覧特攻平和会館 (04) 特別攻撃隊の誕生

私は、職員のおじいさんのトークの続きに耳を澄ました。

開戦後、あっというまにオーストラリアのすぐ近くまで進出いたします。8000kmも離れているんですね。ところが半年ほどしますと、アメリカ軍を中心とした連合軍が体制を整えて反撃に転じてまいります。それ以降は防戦一方になり、開戦から3年後、昭和20年の初頭になると、沖縄はもちろん本土にもかなりの空襲が激しくなってまいります。当時政府としては、沖縄は本土の第一線として、絶対に守らなければならない重要な地域として考えておりましたので、そこで生まれたのがいわゆる特攻作戦だったわけです。つまりこの作戦はアメリカの物量、アメリカはたくさんのモノを持っています。日本はほとんどモノがありません。その少ないモノになんとか精神力を入れて、大きな戦闘力にしようとしたところに、狙いがあったわけです。

では、その特攻作戦、海軍におきましては、人間魚雷というものを使ったんですが、陸軍におきましては、戦闘機による体当たりだったんですけれども、もともと海軍が先輩なんですね。ちょうど半年ほど前なんですけれども、昭和19年10月に、フィリピンのレイテ島、ここで天下分け目の戦い(レイテ沖海戦)が行われました。そのとき海軍がはじめて採用し神風特攻隊として、アメリカ軍は大変恐れをなしたものなんですが、沖縄における特攻は、我々と同じ同胞が住む第一線への特攻として、海軍のみならず陸軍もかなり力を入れたのであります。

では、特攻の要領はどうであったか、この戦闘機で説明いたしますと、この戦闘機の機首名は陸軍三式戦闘機、飛燕(ひえん)と読みます。もちろん本物で、日本に一機しかなく、向こうの部屋に展示しています。

知覧特攻平和会館に展示されている陸軍三式戦闘機「飛燕」(キー61Ⅱ改)

みなさんから向かいまして左側の翼の下に、重さ250kgの爆弾を付け、そして右側の翼の下に、200リットル入りの燃料タンクを付けて、沖縄の洋上まで飛んでまいります。そして沖縄の洋上に迫ってまいりましたアメリカ軍の戦艦・航空母艦、大小合わせますと1500隻が迫ってきたんですけれども、その中のめぼしいもの、大きいものに対して、機体モロとも体当たりして撃沈をさせる、沈めるという必死、必ずパイロットは亡くなるという作戦だったわけです。

では、そのパイロットにはどんな人たちがなったかと言いますと、このような方々が非常に多かったんですね。まだ少しあどけない子供っぽい顔をしておりますが、この真ん中の三人が17歳、そしてこの脇の二人が18歳、今の高校2年生、3年生の年齢です。この人たちは少年飛行兵と言われる兵士です。

少年飛行兵の写真

当時小学校は国民学校として改変され、初等科6年、高等科2年となるんですが、高等科2年を卒業して、14歳で当時あこがれの少年飛行兵に応募いたします。今でもパイロットと言いますとあこがれの職業のひとつかと思うのですが、当時は戦闘機のパイロット、戦闘機乗りは、少年たちにとって非常にあこがれの的で、難関だったんですね。

そしてそこに入って3年から4年、もうみっちり訓練を受けて、卒業して第一線に出ていくというコースだったんですが、この方々の場合は、それが特攻隊につながってしまったわけです。で、この写真に写っているこの方々は、第72振武隊員(しんぶたいいん)として、5月27日、全員特攻戦死いたします。この写真はその前日、5月26日にたまたま少しさびしげな顔をしている子犬とみんなで一緒にたむろしているところを通りかかった朝日新聞の記者が、「君たちはいつ出撃ですか?」と聞いたところ、「はい、私たちはいよいよ明日、出撃します。デッカイやつを沈めてみせます」と決意を述べたところ、それでは一枚撮らしてくれと言って、あわてて撮った写真なんだそうです。

でもこの顔を見ると、明日死ぬという顔ではないんですね。もし私が同じ状況に置かれたら、おそらく顔は真っ青になって、ほっぺたの付近は引きつったりして、こんないい顔はできないと思うんですが、この人たちはもう達観していたというか、任務一筋に考えていたのではないでしょうか。

当時は毎日空襲続きで、もう日本はダメだろう、もう負けるだろうということが、階級が下の兵隊さんまでだんだんと分かってまいります。しかしながら負けるのをただ手をこまねいて、ジッとしているわけにはいかない。オレたちが敵の艦船を、一隻でも二隻でも沈めることによって、国が救われ、また親兄弟が助かるのであれば、それもまた立派な命の使い時ではないか、これは当時の教育の大きな成果と言えるのかもしれません。そして巷で言われているように、戦争は終わるだろう、すると日本は復興するに違いない、そのときに残った人たちが、我々の分まで日本再建・発展に向かってがんばってくれるに違いないという祈り・願いを込めながら、そして後に残るものを信じつつ、彼らは沖縄の空へ消えていったのではないでしょうか。

この少年飛行兵はみんな、こんな朗らかな明るい顔ばかりしていたかというと、決してそうではなくて、全国から集まった特攻隊員たちが出撃までの間、しばらく過ごしたのが、この三角兵舎です。この建物、あちらに復元したものがありますので、また見学いただきたいと思いますが、建物が半分地下に埋まったような、窓もない薄暗い建物です。そこで数日間過ごして、出撃をしていくんですが、夜寝ているところを、寝ずの番が真夜中に点検してまいりますと、中には声を殺して、毛布をすっぽりかぶって、肩を震わせながら泣いている姿が、非常に多かったんだそうです。

それはひとつには、死に対する恐怖があったでしょうし、もうひとつは、せっかくこの世に生を受けながら、わずか17歳、18歳で、もう死ななければならないのかと思うと、残念で悔しい思いがあったでしょう。また一方では、自分が敵の艦隊に体当たりすることによって、親兄弟あるいは愛する人が助かるんだなと思えば、それもまた大切なことだ、もう早く行かないと間に合わない、こういったいろいろなジレンマ・葛藤があって、その夜はおそらく泣くだけ泣いて、次の日にこんな形でみんな集まったときには、「おい、オレもがんばるから、お前らもがんばれな」と言って肩を叩き、お互いを励まし合いながら、沖縄の空へ消えていったのではないでしょうか。

そしてこの特攻隊員たちを支えたのが、こういう方々です。これは知覧高等女学校の生徒のみなさんです。この方々、国民学校高等科1年を出て、13歳で女学校に入るんですが、当時になりますとこの方々が、特攻隊員たちの炊事・掃除・洗濯などの身の回りの世話をし、そしてときには戦闘機の整備の手伝いもする、そして特攻隊が飛び立つときにはこのような形で見送る、こういう毎日が知覧基地において続いたのであります。

沖縄への特攻作戦は、第一次から第十一次総攻撃まで、陸海軍合わせて十一回の大きな総攻撃の形で行われました。向こうの部屋に入りますと、たくさんの遺書・手紙が展示してありますが、大きな遺品室に入りまして右側の方から、出撃順・戦死順に時計と反対回りにその遺影と関連の遺書・手紙が展示してございます。その中から特色のあるものを二、三紹介させていただきます。

「知覧特攻平和会館 (05) 特攻隊員たちの遺書」に続く

2010年4月27日 19:15