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2010年4月27日

知覧特攻平和会館 (02) 特攻隊員たちの遺影

知覧特攻平和会館の前に着いた。建物の入り口はこんな感じだった。非常に近代的な建物だった。

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ここに、散華した特攻隊員たちの写真・遺書・遺品など約4,500点が展示されている。私は少し緊張を覚えながら、建物内に進んでいった。

圧巻だったのは、特攻隊員たちの遺影が、出撃戦死した月日順に整然と美しく展示されていたことだ。手元の資料によると、1,036柱もの遺影だとある。そして遺影の下のガラスのショーケースには、特攻隊員たちが家族や友人に残した遺書・手紙・辞世の句といった遺品が、丁寧に展示されてある。

私は遺影として飾られている白黒写真の少年たちと向き合った。ある少年は朗らかな笑顔を浮かべ、また別の少年は決意に満ちた眼差しをこちらに向けていた。彼らはいったい何を私に語りかけてくるのだろう?

ショーケースの遺品に目をやると、親・兄弟に宛てて書かれたのであろう、遺書が読めた。「武運長久」「お母さん、お元気で」「親不幸ものでした」「これから征ってまいります」等々、さまざまな別れの言葉がそこには綴られていた。私は無意識のうちに、手紙の主がどの遺影の少年なのかを探していた。まるで自分の祖父か親戚にあたる人物が書き残したものを見るような気がしていた。同じように遺書を読んでいる人がハンカチを顔に押し当てて、声を押し殺すようにしてすすり泣いているのが聞こえてくると、私も次第に辛くなり、涙が胸の奥から溢れてきて、それ以上は読めなくなりそうだった。私はできるうる限り感情を抑えて、遺影と向き合おうとしていた。

ひととおり遺影や遺品を見終わった頃、館内放送で、館内のとある小部屋で平和会館の職員の方による25分間ほどの特攻についてのトークが行われるというので、そちらに行ってみることにした。このトークの内容が非常に印象に残り、また貴重な内容だったので紹介してみたい。それは次のような出だしで始まった。

なぜ、特攻という作戦が行われるようになったのか、歴史的な背景について、お話します。
そしてどういう方々が特攻で亡くなられたのか、そして最後に彼らが書き残した遺書・手紙の中から、特色のあるものを紹介してみたいと思います。

この知覧特攻平和祈念会館には、今から64年前、大東亜戦争末期、戦後太平洋戦争と言うようになりましたが、昭和20年3月26日から7月19日、終戦間際に行われました沖縄への陸軍の特攻作戦で散華されました1036名の方々の遺影、そして関連の遺書・手紙などが展示されています。

沖縄への特攻作戦は、この知覧の基地をはじめとしまして、宮崎県の都城など九州各地、そして当時まだ日本が統治をしておりました台湾など、多くの基地から沖縄に出撃しておりますが、この知覧の基地が本土最南端だったということもありまして、もっとも多く1036名のうち439名、半数近くがこの知覧の基地から出撃をしております。

特攻隊員が飛び立ちました知覧飛行場は、広さがおよそ200ヘクタール、これは鹿児島空港、熊本空港など今の地方空港をひと回り大きくした、非常に広い広さです。
その飛行場が開設されましたのは、昭和16年12月、ちょうど太平洋戦争が始まりましたときに、福岡県にありました太刀洗陸軍飛行学校の分校として開設されました。

それまで知覧という町は、知覧城の城下町として栄え、大変閑静な町だったのですが、飛行学校分校ができまして、毎日厳しい訓練に明け暮れる陸軍飛行隊の町と化したのです。
そして最終的に、沖縄に一番近いということもありまして、昭和20年3月に特攻の基地に指定され、終戦を迎えるものであります。現在城下町の一部が、武家屋敷群として、知覧の町に保たれてあります。

「知覧特攻平和会館 (03) 太平洋戦争勃発」に続く

2010年4月27日 15:51