摩文仁の丘より | 知覧特攻平和会館 (02) 特攻隊員たちの遺影 »

2010年4月26日

知覧特攻平和会館 (01) 知覧到着

鹿児島県南九州市知覧(ちらん)町。
2009年7月、夏のある日の朝、私は鹿児島中央駅からバスに乗り、その町へ向かっていた。
いつのことか忘れたが、知覧にはかつて太平洋戦争中に、日本帝国陸軍の特別攻撃隊、いわゆる特攻が飛び立っていった「知覧飛行場」が存在し、今はその跡地に特攻に関する資料を収拾・展示している「知覧特攻平和会館」という施設があると聞いた。
それ以来、私は機会があればその地を一人で静かに訪れてみたいと思っていた。そう、できることなら誰かとともにではなく、一人で行ってみたかった。なぜかは分からない。多分想像することすら困難な過酷な時代に散華していった「特攻」という存在に、向き合ってみたかったのかもしれない。
そうしてようやくその日、私は知覧行きのバスに揺られていた。

「特攻」とは何か?爆弾を積んだ戦闘機で、洋上の敵艦に突っ込み、体当たりを食らわして敵艦を轟沈させる一撃必殺の攻撃のこと。
決して生きて戻ることができない戦闘機を使った自爆攻撃のこと。
私はパイロットの運命や生涯、そして彼らを訓練し、戦場に送り出した人たち、「天皇陛下、万歳」と叫んで彼らを見送った人たちについて考えた。彼らは、何を思い、どんな気持ちで、日々訓練に励み、家族に手紙を書き、命令を受け、あるいは自ら志願した特攻の計画を告げられ、生涯最後の晩を過ごし、そして基地を飛び立ち、自分の命と引き替えに、敵艦に突入していったのだろうか?
いったいどんな気持ちで?

私にそれができるだろうか?いや、絶対にできないだろう。
私にはできそうにない。いろんな言い訳をし、それが通じなければ、きっと逃げ出すに決まっている。なんでオレが死ななきゃいけないんだと。
腰抜け、弱虫、なんと言われてもかまわない。とにかくそんな痛そうな死に方は絶対にごめん被りたい。そう思うのが普通の人間の反応ではないか。

しかしそうしなかった大勢の若き特攻隊員が、私が今いる知覧から沖縄の空に向けて飛び立っていった。それからおよそ65年の時間が過ぎ去った。

時代は違えども、私は今、紛れもなく特別攻撃隊が飛び立っていった基地が存在した現場にいる。もしかすると私が乗っているバスが走っているこの道のすぐ脇を、戦闘機は滑走し、大勢の人々に見送られ、離陸していったのかもしれない。

私がそんなことを考えている間に、バスは終点の特攻観音前に到着した。私はバスを降り、大型観光場バスが何台か駐車している駐車場を通り抜けて、知覧特攻平和会館へと歩いた。「戦史詳細図」と書いてある案内板を眺めた。

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これを見ると、現在の知覧町一帯が軍事施設群であったことがなんとなく想像できる。
「弾薬置場跡」「高射砲陣地跡」「掩体壕跡」といった文字が見える。弾薬置場は文字通り爆弾を保管しておくための倉庫だろう。高射砲とは敵の航空機から自軍を守るための武器のことだ。といっても私はそれがどのようなものか想像はつくけれど、実際に見たこともなければ触ったこともない。
掩体壕とは何か?最初は恥ずかしながら読めなかったし、意味も分からなかった。後で調べてみると、掩体壕とは「エンタイゴウ」と読み、敵機から自軍の航空機を隠しておくための格納庫で、かまぼこ形をしているものが多いらしい。

知覧特攻平和会館の近くに「特攻像 とこしえに」という特攻隊員の銅像があった。

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足下には、次のような言葉が書いてある。長くなるが引用してみよう。

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特攻像「とこしえに」の由来

特攻機は、遂に帰って来ませんでした。
国を思い、父母を思い、永遠の平和を願いながら、勇士は征ったにちがいありません。
特攻像「とこしえに」は、全国の心ある人々によって建てられました。
み霊のとこしえに安らかならんことを祈りつつ、
りりしい姿を永久に伝えたい心をこめて
ああ、開聞の南に消えた勇士よ

制作 日展審査員 伊藤五百亀先生
除幕 昭和四十九年五月三日
建設 知覧特攻慰霊顕彰会
(以上「特攻像 とこしえに」の銘より引用)
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この文章を注意深く読んでみた。
彼ら特攻隊員にとって、国を思う、とはどういうことだろう?
また、父母を思い、平和を願うとはどういうことだろう?
そして彼ら勇士は「征った」。「行った」ではなく、「征った」である。そこに込められた言葉の重み。目を閉じて、しばし考える。

私は、そしてもしかしたら今この文章を読んでいるあなたは、最近国を思うことがあるだろうか?この日本という国や日本という社会は、ロクでもない国で、ロクでもない社会だ。決して希望に溢れ、明るい未来が待っている暮らしやすい国ではないと、大勢の人がなんとなく感じながら、それでも毎日精一杯、人それぞれに希望を失わないように生きている。

どちらかというと、私やあなたにとって、国とは思うものではなく、こちらのがんばりや期待に応えてくれないもの、変えたくてもなかなか変わらないもの、そういうふうに日常的に感じているのが、正直なところではないだろうか?例え国が困っているとして、あなたや私は「国を思い、父母を思い」、自らの命を投げ出して救おうとするだろうか?

少しは、自分が生きている日本というこの国のことを思いたい。愛国心も持ちたい。そしてできれば、外国人の友人に、私が生まれて日々暮らしている母国・日本は、こんな歴史があって、こんな文化があって、今度のワールドカップで活躍が期待できるサッカーの強豪国で・・・といった調子で、語ってみたい。

しかしそういうふうに国を思うためには、ワールドカップで活躍できるぐらいのサッカーの強豪国であるかどうかはともかく、私はまだまだ自分の国の歴史や現在に至るまでに起きたこと、最近あった出来事を知らなさすぎのように思われてならない。何かを知り、考え、自分の意見を持った上で、国のことを思える心を持つ人間になりたい。他人事のように、自民党ダメだね、民主党もダメだね、という何かのせいにして思考停止してしまうような人間ではなく。

話を特攻に戻そう。私は特攻についてよく知らないまま、突き放した意見を持つこともできる。特攻隊員とは、当時の軍国主義教育により洗脳され、正常な判断力を奪われた狂信的な集団であり、人間らしい心を奪い取られた人たちなのだから、理解することなど到底不可能であると。時代と状況があまりにも違いすぎる。彼らの国を思う気持ちなど、私たちには決して分からないのだ。

もしそのように考えることができれば、私は東京から飛行機と電車とバスを乗り継いで、知覧まで来ることもなかっただろう。そのように割り切れず、実際に足を運んで考えてみたかったからこそ、私はここまで来たのだ。そしてその後、数ヶ月が過ぎた今、特攻とか、太平洋戦争とか、知覧とか、そういったものと縁がなく日常生活を送っている人に、「死ぬ前に、一度は訪れてみたい場所」をぜひ伝えておきたくて、この文章を書いている。

つまり私がそう思う何かが、そこにはあった。現代社会を生きていく上で、必要かどうか、それは分からないけれども、必要とか不必要とかじゃなくて、私たち日本人が「知っておかなければならない」ことがそこにはあったということが言いたいのだ。みんなそう思えるのかどうかは、確信がないけれども。

「知覧特攻平和会館 (02) 特攻隊員たちの遺影」に続く

2010年4月26日 15:59